「2007年04月24日」の記事一覧

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続いて、もう一作

2007年04月24日

さあ、恥ずかしついでに、もう一作。

今度は、宮澤賢治です。賢治も私の青春の大きな一頁でありました。
宮澤賢治は、「銀河鉄道の夜」を代表とする多くの童話・寓話が有名ですし、私も大好きであります。

が、ここでは、彼の詩集、これも大変有名な「春と修羅」の序文、あの名文を朗読してみましょう。

「わたくしという現象は仮定された有機交流電燈のひとつの青い証明です。風景やみんなといっしょにせはしくせはしく明滅しながら、いかにもたしかにともりつづける因果交流電燈のひとつの青い照明です。」

賢治は、この序文ができた時に、大変喜んだということを聞きました。
確かに大変な名文ですね。短い文章の中に、多くの事象を的確に表現した文章だと思っています。(ちょっとずれるかもしれませんが、私は梶井基次郎の「檸檬」を思い出します。彼も短編の中に一分の隙の無い素晴らしい文章を紡ぎだしています。)

ということで、ここで終わっていればいいのですが、これはあくまでも私の記録です。蛇足ですから読み飛ばしていただいて結構です。

そして、この文章に触発されて、次の文を書いてみました。

「賢治は人間存在を生成流転・輪廻転生の中に置いた。君の存在は悠久の時の流れから因果の連鎖の中にいる。
そして、君の人生は『いかにもたしかにともりつづける青い照明』なのだ。

積雪の朝はしばれる寒さが肌を貫く。寒さを過ごし無音の静寂が周囲を覆い始め、意識の脈動は一点に留まる。大気と体内、全宇宙の律動が同期を始めて君の意識が意識でなくなる。
全天の物質が一連なりをなした時、君はささやかな一歩を始める。」

昔はこういった文章を作り、自己の存在理由(これも格好をつけて「レーゾンデートル」と言ったもんです。)を確かめておりました。いやはや年食ったなあ・・・・face07  


Posted by かっちゃん  at 10:13Comments(2)文学・芸術・音楽等

私の試作の棚卸し

2007年04月24日

さて、このブログをはじめて1ヶ月が過ぎました。何人かの方々に見ていただいてもらって大変感謝しております。
このブログは私と皆さんとのコミュニケーションの場として行っていますが、半ばというかほとんど自己満足で終わっている内容も多々あるかと存じます。
それは、ほとんどというかまったく自分のための記録のような意味合いもありまして、そんな記事を皆さんに読んでいただくのはどうか、とも思うのですが、私のような意思の弱い人間は、皆さんという存在を利用しないと、こんな面倒くさいことをやろうとしないわけで。
そういう意味では、皆さんに対して大変失礼千万なブログであります。
あらかじめお断りをして、今日も思う存分自己満足のための内容に走って参りたい、と存じます。

さて、大変恥ずかしいのですが、私が20代の際に書いた文章を、自分の記録のために記載させていただきます。

サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」がモチーフになっています。
私の青春の一頁を飾った、大変リリカルな、そして大好きな本でした。

題名は 「楽しんでいいのか。」。
よろしかったら読んでみてください。では。

「楽しんでいいのか。」

    「とにかくね、僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、~(略)~何千という子供たちがいるんだ。~(略)~僕はあぶない崖のふちに立っているんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ~(略)~ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。」J.D.サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」より

 「楽しんでいいのか。」「勉強しなくていいのか。」「間違えていいのか。」

ねえ、君、どうして僕たちはこんな問いをしてしまうんだろうか。親や友達や他人から言われる前になぜ僕たちは自問しているんだろうか。自信の無さの証明なのか、後ろめたさが自然に言葉となって表れて誰かに許しをこうているのか。
自信のある気持ちとはどんなものだろうか。僕はいつも考えてしまう。なにかを行いそして成し遂げるとき、人はそんなに自信にあふれているのだろうか。そして、いったい誰に後ろめたさの許しをこうているのか。

ねえ、君、僕たちはなにかに突き動かされている。自分自身の気持ちで動いている気がしないんだ。親に、社会に、面つに、見栄に、なにかそういったものに。
親の生活について考えたことがあるかい。彼らは何のために生活しているのだろうか。僕たちを養うため、自分たちの生活のため、人様に迷惑をかけないため、立派な家を建てるため、お客様がきたときに自分たちの生活がいかに素晴らしいかを感じ取ってもらうため。
親たちだって自分自身の気持ちで動いていないんじゃないか。

実は、君、僕は好きなことがあるんだよ。それは雨の日の日曜日の午後に、僕の部屋から受話器をかけたまま友だちに電話することなんだ。友だちと話をすることは難しいことさ。僕は自分の気持ちと違うことをいつも友だちに話してしまう。だから、受話器をかけたまま話をするんだ。自分の思ったこと、考えたことをありのまま喋るんだ。
しかし、なぜ友だちと喋るときはこうならないんだろう。自分自身の気持ちっていったい何なんだ。

自分の気持ちがわからなくなることって君にもあるだろう。僕にはたくさんあるよ。とくにあの娘に初めて電話したときのことさ。やはり雨の日曜日、外の公衆電話から受話器を取ってダイヤルを回したんだ。12月も中ごろ、暮れが押し迫っていたころで非常に寒かった。
かじかんだ手と、胸の動悸に押し出された息が白い蒸気となって冷たい雨に滲んでいったことを思い出すよ。電話の向こうで呼び出し音が鳴ってあの娘の声が出るまでの間の僕の心持ちを、君、察してくれ給え。
100mを9秒87で走ったってそんなことはないはずさ。そして、彼女が電話に出て話をするうちに凪のように静かになっていく僕の気持ちを、君、想像できるかい。
自分の気持ちの琴線を弦にしたヴァイオリンを巨人に奏でられている、そんな気がして自分がよくわからないんだ。

聞いているかい、君、僕は思ったんだ。僕たちの問いかけは非常に多い。友だちのなかには、こんな問いかけを素通りして春の準備に忙しい者もたくさんいる。僕はまったく自信がないんだよ。こんな問いかけや巨人の奏でるヴァイオリンの音が春の訪れに木霊するのだろうか。

で、僕は思ったんだ。胸の中にセンターポールを思い描き、そのまわりにらせん階段を置いたんだ。センターポールの中くらいには春の訪れがあるんだよ。問いかけの一つ一つがらせん階段なのさ。
そして、君、僕は決めたんだ。直接センターポールをよじ登るのではなく、らせん階段を登っていこうってね。
また、こうも思ったんだ。これからは何があろうと、センターポールに白旗はあげないぞってね。

君、また例の問いかけが聞こえてきたよ。

「楽しんでいいのか。」

そうしたら、君、僕は感じたんだ。
もう楽しんでいるじゃないかってね。


        --終わり--  


Posted by かっちゃん  at 09:50Comments(0)文学・芸術・音楽等

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かっちゃん
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智を以って就き、而して成就されたし。然れども肝要なるは朋なり。
(漢詩に似せて書いた私の想いです。実はわが息子の名前を考える時に、作った文章です。)
人はどこから来てどこに向かおうとしているのでしょうか。
忙中閑の一瞬、時と空間、行間(?)を大切にしたいと思う今日この頃ですが・・・・馬脚馬脚。
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